善峯寺住職のほんわか説法

三つの呪文

新年は多くの方々がお寺や神社にお参りします。私たち日本人は、仏教と神道、これら二つの宗教を共に受け入れて習合しており、このような民族は世界でも大変珍しいそうです。そしてこの習合の教えを基に、私たちは日常生活を感謝して穏やかに過ごすために、三つの呪文を唱えてきました。それは、「ばちがあたる」「もったいない」「ありがたい」の言葉です。
「ばちがあたる」というのは、主に神様を畏れた言葉で、目に見えない力に対しての畏敬と謙虚の心です。悪い行いを戒める言葉として唱えてきました。
「もったいない」は「物体」を否定する仏教用語で、贅沢をして使えるものを有効に活用せず、無駄にすることを戒める言葉として唱えてきました。
「ありがたい」も「有り難い」の仏教用語で、人からの好意に対して、滅多にないこととして感謝する言葉で、人からの好意に対して感謝をしない傲慢な気持ちを戒める言葉として唱えてきました。 「ばちがあたる」「もったいない」「ありがたい」、この三つの言葉は、私たち日本人の祖先が語り継いで残してきたすばらしい呪文だと思います。この言葉は説明しなくても、子供達にだって分かります。よく「私は無宗教です」という人でも日常で使っています。日々の生活のなかで素直な心で「ばちがあたる」「もったいない」「ありがたい」と呪文のように唱えることによって、身も心も、そして暮らしにも調和が取れてくること間違いありません。この三つの呪文で日々健やかにお過ごしください。

明るい家庭は挨拶から

皆さんは今朝起きて、「おはよう」と家族に挨拶しましたか。また毎朝挨拶していますか。私は毎日の挨拶を大切に考えて実践しています。
漢和辞典で「挨拶」を調べますと、「挨」という字は“開く”という意味で、「拶」という字は“交わる”という意味があります。つまり挨拶することによって、まず自分自身の心を開き、同時に相手の開かれた心との交わりによって、お互いに心を通わせ合い、理解し合うのだと思います。 どんな話し合いも、心が閉ざされては決してうまくいきません。人間関係はすべて、挨拶に始まり挨拶に終わります。たとえば、よそのお宅を訪問したとき、まず挨拶、そして用件に移ります。それが終わって帰るときも、挨拶をして帰ります。いうならば挨拶は心の交わりのかけ橋であり、潤滑油だと考えられます。世の中や家庭内がガサツになり、ギスギスしている最大の原因は、挨拶がおろそかにされていることだと思います。心の触れ合いを大切に考えるならば、まず家族同士の「おはよう」からスタートしたいものです。
家庭内での挨拶は「おはよう」に始まって、食事のときは「いただきます」「ごちそうさま」、出かけるときは「行ってきます」「行ってらっしゃい」、帰ったときは「ただいま」「お帰りなさい」、そして夜休む前は「おやすみなさい」、この八つです。八つの挨拶がすべてできなくとも、これを読まれた皆様には、せめて5つ以上は毎日実践していただきたいものです。 非行少年や犯罪者の出た家庭を調べた新聞記事を以前読んだことがあります。おしなべていえることは、日常生活のなかで挨拶が全く実践されていないことでした。つまり触れ合いのない、暗い家庭だというわけです。
やはり日頃から家庭でも職場でも、気軽にまず「おはよう」の挨拶を交わして、ごく簡単な基本的マナーを習慣づけることが大切です。

お寺の石段

ある日、巡礼好きの方がお越しになって、こう言われました。「私はお寺巡りが好きで、全国のお寺を訪ねています。特に西国三十三ケ所は素晴らしいですが、一つだけ気に入らないことがあります。どうしてお寺には石段が多いのですか。私たち老人にはひと苦労ですよ。登ったら、また降りなければならないし・・・・。」三十三ケ所は石段が多く、善峯寺も石段坂道を登らないとお参りできません。高い場所にあるお寺の石段は単にお寺に行き着くための道路の一部なのでしょうか。
私はそうは思いません。善峯寺の門をくぐると、その瞬間から世俗を離れて観音様がお住まいの清らかな世界に入ります。この世界に要所へ向かうには石段を一段一段上って、日常生活で身心に積もった塵や挨を払い落とさねばなりません。そして石段には、一段ずつ観音様の位へと上がる修行の意味が込められていると思います。石段を上ってお堂にたどり着き、観音様を奉拝すると身も心も洗い清められます。
参詣の後は、その清らかな心のまま石段を降りて、再び現実の日常生活へ帰ります。聖なる観音浄土から世俗の日常生活に再び戻る道という意味も、石段にはこめられていると思います。石段を歩き参詣することによって、日常生活で無意識のうちに犯した罪やけがれが洗い流されるに違いありません。
このように説明すると巡礼好きの方は、「お寺の石段はひと苦労などと失礼なことを申しました。大切な修行の道だったのですね。」とおっしゃって石段を踏みしめて降りていかれました。

仏壇と家庭教育

近ごろは家庭教育の一環として仏壇を購入するご家庭が増えているといいます。家庭の中心に仏壇があるかということは、家庭教育に大きな違いを生むようです。たとえば親子の断絶とか、青少年の非行など先祖や親に対する尊敬や感謝の気持ちを持つことで、ずいぶん変わってくるようです。
つまり自分の存在は、過去から連綿と伝えられてきた先祖の、そして産み育ててくれた親の愛なくしては考えられないわけですから、時には、親と自分をつないでいる”命の絆”の不思議さを、心静かに考えてみたいものです。 仏壇を中心とする家は、住む人の心に我執(がしゅう)がなく、仏の家に住まわせていただいているという報恩の生活、そしてあらゆるものへの感謝の気持ちと、素直に頭を下げることができる安らぎの心が生じてくると思います。 私がお盆参りする家に、幼稚園に通う娘さんがいます。この娘さんはお客さんからお土産をもらうと、必ず仏壇に供えてから頂くそうです。この家には、先々代からの古い仏壇があり、おばあさん、そして母親がいつもお供えしているのをその子も見て育ち、幼いながらも、ごく自然にそうするものだと生活のなかで覚え込んでいるのでしょう。仏壇の前にちょこんと座り、小さな手を合わせて「いただきます」といっている姿を見るたびに、とても清々しく心が和みます。 「チーンチーンチーン、ナムアミダブナムアミダブ」「あっ、おばあちゃんのお参りが始まった」お孫さんが仏壇の前へ走って行きます。この家の朝は、おばあちゃんのお参りから始まります。「家族皆が元気でありますように、お願いします」と、お仏壇の前でお願いされます。朝だけではありません。珍しい物を頂いた時は、まず、お仏壇へお供えします。さらに、朝のお水、お茶などのお初も必ずお供えして一日を迎えます。お父さんが「ハイ、お土産」と出しても、すぐに戴かないで、まず仏様へお供えして、という具合いにまず、お仏壇の仏様へお供えします。
お仏壇は、その家のお寺であり、家庭の精神的な中心です。毎日、まずお仏壇にお参りして、心静かに自己をみつめてから次の行動を起こすことが良い結果に結び付く、と確信しております。

「心眼」

物事の真の姿をはっきりと見きわめる心のはたらきを「心眼」といいます。もちろん物事を見るはたらきは、目がします。でも心がしっかりしていないと、目は清浄なはたらきをすることができなくなります。目が見えるばっかりに、かえっていろんな迷いを起こしてしまうということにもなりかねません。だから物事を知ろうとする時には「心の眼で見よ」と仏さまは説かれているのです。まず物事は平静な心で見ることです。そうすれば、どんな物事からも、なにかを教えられ、素直な心で見れば、生かされている生命の尊さに感動します。
見識(けんしき)とは、よくいったもので、見るとは識(し)ることの大本(おおもと)です。だからなんでも、よく見なければなりません。私たちは生まれた時からまわりの物の見まねで大きくなって来ました。学ぶという言葉のもとは、「頭」だといわれます。どうせ真似るなら、よりよく真似なければなりません。心が曲がっていては、間違った真似をしてしまいます。私たちが正しく生きようと心がける時、まわりの物は、みな先生として目に映るのです。

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