善峯寺の歴史
源算上人が開山されてより、千手観世音菩薩や護法善神が多くの霊験をお示しになりました。また祖師先徳がご本尊倍増威光のために尽力され、皇室や将軍が報恩謝徳のために寄進をされました。この主な歴史をご紹介します。
開山とご本尊
善峯寺は平安中期の長元2年(1029)源算上人が小堂に御自作の千手観音を奉安して、阿智坂の法華院と号したのが始まりです。長久3年(1042)後朱雀天皇勅命により、洛東鷲尾寺の千手観音を遷座して本尊とされました。この本尊は千手堂を造立して奉安されて、開山上人の観音像は別に奉安されました。
源算上人の霊験霊蹟
阿智坂明神の示現
長元2年7月1日、源算上人47歳にして、霊地を求めて西の山に入りました。 山が険しく半ばで休憩していると、一人の翁神が現れて、「我はこの地の地主にて名を阿智坂という。この霊地に伽藍を草創し給え。この地を与えて永く仏法を守らん。」と上人に告げるといなくなりました。この鎮守である阿智坂明神はバス駐車場東の地に祀られています。
猪の地ならし
源算上人は開山お堂建立にあたり、この地は岩が多いことから、地ならしが困難であることを思い悩みます。その夜、上人の夢に一人の僧があらわれ、力を貸し与えることを告げます。次の夜、野猪の大群が現れて、一夜にして牙で大岩をうがち、平地となりました。この場所にお堂が建立されて法華院と号しました。
善神龍王
源算上人は開山にあたり、仏法を弘通することを祈るため、しばらく岩屋に籠ります。
7日目の夜に天魔が現れて、上人を妨げようと暴風雷雨を起こします。上人は驚動せずに利剣と念珠を持ち、孔雀不動の真言を唱えて三昧の境地に入りました。すると鬼神が現れて、仏法の威力によって邪心を改め、仏法の善神となり守護することを誓って去りました。
また干ばつの時に源算上人は請雨法を修されました。その場所は西滝と呼ばれ、青龍が現れて大雨を注いだ霊蹟と言い伝えがあります。この霊験から勅命により善神龍王社が建立され、その社は明治4年に弁天堂と改名されています。
現在、上人開山時に鬼神の去った西の地は、善神龍王の住む「魔鬼の尾(槇尾)」と呼ばれて、この地で雨を乞い祈れば、忽ちこの山より雲が出て雨を注ぐと伝えられています。
寺号の由来
「善峯寺(善峰寺)」という寺院は全国でも1つしかないと言われています。寺号の由来はいくつか伝えられています。
- 後一条天皇により鎮護国家の勅願所と定められ、「良峯寺」の寺号が下賜されました。
- 干ばつの時、源算上人の祈りで、龍王が雨を西山の峰より降らした奇瑞によって、後冷泉天皇より「良峯」の勅額を賜りました。
- 後鳥羽天皇より、慈鎮和尚ご住山の時に「善峯寺」の勅額宸筆を賜りました。
- 「本名は阿知坂なりしを改めて善峯山と名附らる諸善奉行の教を流布せんためなり」とあります。
※尚、寺号「峯」の字は歴史上「峰」「峯」ともに使われており、現在当山では便宜上「峯」に統一しています。
境内の歴史
善峯寺の隆盛時には三尾に多くの伽藍が建立され、南尾の法華院、中尾の蓮華寿院、北尾の往生院を中心に52坊ありました。現在の観音堂付近が南尾法華院で、薬師堂付近が中尾蓮華寿院です。現在の北尾は三鈷寺の境内地で、往生院旧跡は証空上人ご聖跡として浄土宗西山三派の信仰地となっています。応仁の乱により大半のお堂が焼失して、江戸時代には10近くの伽藍と7坊が復興され、明治時代には神仏分離令の流れを受けて一坊に総合されます。現在は境内地3万坪にある20近くの堂塔伽藍と所有地36万坪が受け継がれています。
皇室の帰依と外護
後一条天皇が長元7年(1034)鎮護国家の勅願所と定めてより、皇室より多くの帰依と外護を受けました。後朱雀天皇は長久3年(1042)鷲尾寺の本尊千手観音を善峯寺に遷座するよう勅命され、また後朱雀、後冷泉両天皇ともに観世音菩薩への信仰と源算上人の霊験により帰依され、白河天皇は観音霊験ご出生の由緒により諸堂を建立され、後鳥羽天皇は建久3年(1192)慈鎮和尚ご住山の時に「善峯寺」の勅額宸筆を下賜、後嵯峨天皇は証空上人ご住山の時に勅願所と定め、後深草天皇は霊験により善峯寺の観世音菩薩を深く帰依され、後小松天皇は応永6年(1399)乙訓郡坂本、長峯、灰谷等の地を施入され、後花園天皇は宝徳元年(1449)宸翰を下賜、また伽藍を改築されて、深く観世音菩薩を崇奉されました。寺宝として数点の綸旨宸翰も伝えられています。
親王ご住山と歴代親王廟(御陵)について
慈鎮和尚の師である青蓮院門跡覚快法親王が養和元年(1181)薨去され、この時もう一人の慈鎮和尚受法の師である二祖観性法橋とのご親交により、ご住山なき覚快法親王を当山に葬られました。これが「御所墓(御陵)」と呼ばれる歴代親王廟の始まりです。鎌倉時代には、慈鎮和尚の写瓶弟子である道覚入道親王が、西山善峯寺の蓮華寿院に籠居されたことにより、「西山宮」と号されます。その後、蓮華寿院に住される親王も西山宮と尊称され、青蓮院より慈道、尊円、尊道各親王もご住山されて御陵に葬られます。
江戸時代には青蓮院門跡寺務所となり、御陵には青蓮院のご住山なき尊證、尊祐、尊真、尊寶各親王の供養塔が祀られました。
神仏分離令の流れを受けた明治9年(1876)には、覚快、道覚、慈道、尊円、尊道五親王の尊牌が、その筋の命を受けて当山より京都泉涌寺に奉遷されました。現在も五法親王のご命日には供養がなされ、御陵に於いて宮内庁により正辰祭の儀が、当山住職参列のもと執り行われています。
徳川綱吉と生母桂昌院の寄進
徳川綱吉の外祖父本庄氏が当山の薬師如来に一女子を得ることを祈願するとすぐに女の子が生まれ、この子が後に転じて将軍の侍女となり、徳川家光の寵愛を得て綱吉を産み、家光薨去により桂昌院と号されます。桂昌院はこの出生の報恩を謝して、伽藍を改建して諸器什物を寄付し、またしばらく綱吉より寺封(資金補助)が出されました。
貞享4年(1687)綱吉42歳を迎えるにあたり、桂昌院によって「厄除けの鐘」が寄進されました。鐘楼堂は貞享3年(1686)建立され、梵鐘には貞享4年(1687)の銘が記されています。
元禄4年(1691)桂昌院は本庄因幡守を監督役とされて、全山の伽藍を改建されました。元禄10年(1697)綱吉より乙訓郡久世村上里村の200石及び山林420,524坪の寺領朱印が出されました。綱吉以降の徳川歴代将軍は、先例に従い朱印地を下されました。
現存の鐘楼・観音堂・護摩堂・鎮守社・薬師堂・経堂は、桂昌院によって寄進復興されました。また綱吉と桂昌院により『四季繁昌絵巻』、「如法三衣」、「梨子地葵・繋九目紋蒔絵膳具」をはじめ、百点を超える幾多の貴重な什物が寄進されました。これら文化財の一部は文殊寺宝館に展示しています(開館日は別欄をご覧ください)。